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ドキュメンタリーなんて信じない。
いまさらだけど、映画『靖国』を観てきた。

ずっと前から観なきゃいけないなーと思いつつも、自分はどうしても
「映画館で1800円払ってドキュメンタリー映画を観る」ことに
コストパフォーマンスの悪さを感じてしまう小市民なので、いままで
観ずにいたのでした。

でも、とある機会があって無料上映会にお誘いいただいたので、
「これは(無料だし)絶対に行かねば!」と思い参加。
悲しいまでに小市民的な発想(笑)。


観た感想は、ひとことで言うならば「いろんな人がおるんやなー」。


映画自体は、靖国神社を軍国主義の象徴として非難する訳でも、
英霊たちが眠る場所として顕彰する訳でも、どちらでもないスタンス。
あくまで靖国を軍国主義の象徴として非難する「人たち」や、英霊が
眠る場所として顕彰しようとするする「人たち」が、靖国神社の周りに
「集まってくる様子」を描いていて、ドキュメンタリーというよりは
記録映画に近い。

ストーリー性を一切排除した淡々とした展開で(ナレーション一切無し!)、
正直面白い映画ではないし、説明不足という意味ではかなり「不親切」な
映画だとも思う。

だけど、自分はドキュメンタリーに説明が付けば付くほど、つまり
「親切」であればあるほど不信感を感じてしまうヒネた人間なので、
逆にこの潔いまでの説明不足には、ドキュメンタリー監督としての
誠意さえ感じてしまう。


「公正中立なドキュメンタリーなど存在しない」というテーゼは、
メディア研究の世界に限らずもう常識に近くなってると思うけれど、
そのときに、それでもドキュメンタリーを志向する人たちが目指す
方向性って、実は2つあるんじゃないかと思った。

1.公正中立さをあきらめて、自分の主観的なメッセージを伝達する
 手段として、ドキュメンタリーという手法を使う。

2.自分が考えるメッセージの伝達をあきらめて、ある「場」や「人」の
 あり方を記録・保存する手段として、ドキュメンタリーという手法を使う。

この中でも「2」って実は非常に難しい使い方で、おそらく商業的
にも成立しにくい手法だと思うんだけれど、そういった意味でも
この『靖国』の事例は本当に興味深いと思う。

ドキュメンタリーにはもう「1」の可能性しか残されていないと、
半ば諦観してたけれど(それはドキュメンタリーと街頭演説が
ほとんど同義になるってことだ)、この映画を観たら、まだまだ
ドキュメンタリーにも可能性はあるんやなーと、そんなことを
考えさせられた1時間半でした。


あとこの映画、説明が圧倒的に不足している分、それを理解するためには
自分の頭の中でストーリーを補完しなくちゃいけない。そのため、元々靖国に
肯定的な人はこの映画によって「英霊たちの顕彰の場=靖国」という図式を
強化させるだろうし、それに否定的な人の脳内では、この逆の現象が
起きるんだろうと思う。

記録映画に徹するって要はそういうことだから、作家にとっては本当に
忍耐を要する(自分の主張を介在させる余地のない)仕事になると思うん
だけれど、そうした意味も含めて、自分はこの映画を高く評価しています。


ちなみに「実際に観もしないで批判するな!」という言説について、確かに
作り手や、実際に観た人の立場からすればその通りなんだけれど、自分の
ような小市民な観客の立場からすると「そんなクソ映画(の臭いがプンプン
する作品)に1800円も払えるか!」という気持ちも、とってもよく分かる。

だから、キャスティングとか、監督の過去の作品とか、主題歌とか、
映画の内容とは別の次元で「観たくない!」意志を表明するのは、
別に批判されるべきことじゃないんじゃないかとも思うのです。
もちろん、そこには「映画の内容に対する評価では決してない」
という留保が必要ではあるけれど。


…さて、『崖の上のポニョ』はどうするかなー。
観に行くべきか、行かざるべきか。
自分にとっては、それが大問題なのです(笑)。


(music: ウナナナ/ 斉藤和義)

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2008/09/07 | social | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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